秋の夜。闇に融けていく河面に、ゆっくりと送り火が流れる。
 寄り添い、離れ、また引かれ合いながら、赤い繭たちは生ける者たちから遠ざかっていく。
 生者の岸と死者の岸の間に横たわる大河の、無限の広さを照らし出す火の群れ。
 最後の一灯が燃えつきたとき。
 ふいに、黒々と彼岸の影が追った・・・。





























 アダツッアン(足立廣文さん)は私と同い年の昭和六年ひつじ歳生まれだ。アダツッアンと私は色々な面で、こうも違うひつじがいるかと思うほどだ。
 30年前、彼は私を知らず、私も彼を知らなかった。  
小西陳雄

  無題

 北の国の山に
 物静かな山伏がいた
 焚火へ粗朶を投げ込んでは考えこむ山伏がいた
 ときおり酒に酔って法螺貝を吹き鳴らした
 音高く山河を抜け村に響き渡った
 村人は 呼ばれたかのように
 川を越え山をよじった
 耳にあの亮々たる音がなおも残っていた
 山伏は居ず焚火だけが赫々と燃えさかっていた
手前勝手で恐縮だが、その頃こんな拙劣な詩を私は書いていた。
  アダツッアンはその頃、おそるおそる二眼レフのシャッターを押
し、いらだちと不安のなかでカメラ街道を走り始めていたのだ。
 彼はアクが強い。従って、敵が多い。理解してくれなければそれ
でも良い、という姿勢である。
 私ごとき豆腐の角みたいな人間とは大違いだ。麻雀も強い。少々
雀品が悪いが勝つ事は勝つ。こん畜生、と思う。語らせればまなこ
を見開き、口角泡を飛ばし、痛い所を衝く。これでよく闇討ちに遇
はないな、と思う。
 それがどうだ。彼の写真の集大成をつぶさに見ると、私には信じ
られない世界が現われる。光芒のように燦然とする詩情、深い静寂
の奥の幽玄、炎と氷の対比の両極。日光に色々な意味でのナショナ
リストは多いが、透徹したレンズの眼でこれほど「おらが日光」を
愛し続けている人は少ない。
 お互いに通り過ぎてきた違った生計(たつき)の旅程で、彼がそ
れなりに掴んでいたものは、私に共感と刺激をもたらしてくれた。
感謝すると同時に彼に負けたくないと思う。
                                        (こにし のぶお  小西美術工芸社社主)